プッチーニがトゥーランドットを作曲した経緯について その4
プッチーニの死
彼らは最後の望みを托して、この頃最先端の癌治療法とされたラジウム療法(ラジウム含有の金属針を患部に挿入)を受けにブリュッセルのレドゥー教授を訪問すべく11月4日に出発する。3時間にわたる手術は同月24日に行われ、いったんは成功かと思われたものの、突然の心臓発作によりプッチーニは11月29日息を引き取った。『トゥーランドット』は召使リューが自刃した箇所以降が未完となり、あとは23ページにわたるスケッチだけが遺された。
アルファーノの補作
プッチーニの死後、補作を巡っての混乱があった。まずトスカニーニがリッカルド・ザンドナーイの起用を主張したが、プッチーニの版権相続者となった息子トニオはそれに難色を示した。オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, 1914年)および『ジュリエッタとロメオ』(Giulietta e Romeo, 1922年)の作曲家であり、当時プッチーニの後継第一人者を自他共に任じていたザンドナーイが、プッチーニの意図を離れたオリジナルなものを創作してしまうことへの懸念があったものとみられる。
かわりにトニオが推したのがフランコ・アルファーノであった。より中庸温厚な性格のアルファーノならプッチーニの構想により敬意を払ってくれるであろうとの期待、また東洋的な題材を扱ったオペラ『サクーンタラ』(Sakuntala, 1921年)が成功していたことも理由であった。
アルファーノは1926年1月に総譜を完成、それはまずトスカニーニの許へと送られた。ところがトスカニーニは「余りにオリジナル過ぎる」と評して、400小節弱の補作中100小節以上をカットする。これは、ザンドナーイ起用案が退けられたことへの意趣返し、年少のアルファーノに対する敵意(アルファーノはトスカニーニより8歳年少。もっともザンドナーイはそのアルファーノよりも更に8歳若い)、あるいは自らの権威確立のためのブラフ、など様々の意図が込められていた行為だろう。アルファーノはこのカットに対して激怒、それならば自分はトリノ音楽院の教授を辞してトスカニーニに作曲法の教えを乞おう、と言ったとも伝えられるが、結局は削除を呑まざるを得なかった。
(フリー百科事典ウィキペディア:トゥーランドットより)
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