プッチーニがトゥーランドットを作曲した経緯について その1
題材検討の開始
1918年にいわゆる「三部作」Il tritticoを発表して以来、第一次世界大戦後の混乱も影響して新作の途絶えていたプッチーニであったが、1919年の中頃からは新作の題材検討を精力的に行っていた。
はじめ有力な候補だったのが、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』(The Taming of the Shrew)を下敷きに、ジョヴァッキーノ・フォルツァーノが書いた『スライ』(Sly, ovvero La leggenda del dormiente risvegliato)であった。プッチーニは実際、ロンドン訪問時にトーマス・ビーチャムにエリザベス女王時代の歌曲の収集を依頼したりもしているのだが、結局のところ同作のオペラ化は放棄される(この後『スライ』は舞台劇としてイタリアおよびイギリスで成功を収め、ヴォルフ=フェラーリによってオペラ化、1927年に初演された)。
台本作家の決定、トゥーランドットの提案
1919年も年末にさしかかる頃、プッチーニの新作の台本を担当するのはジュゼッペ・アダーミとレナート・シモーニの2人ということで固まってきた。台本作家2人の一方はストーリー展開やキャラクターの性格付けを立案、他方が歌詞文に磨きをかけるという分担は『ラ・ボエーム』でのジャコーザとイルリカのチーム以来、プッチーニの常套手段だった。
劇作家でありジャーナリストのアダーミとは前々作『つばめ』(La rondine)以来の共同関係である。シモーニはカルロ・ゴッツィの研究家としても知られる一方、ジョルダーノの『マダム・サン=ジェーヌ』(Madame Sans-Gene)のオペラ台本作家でもあった。この2人が提案した題材には、例えばディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』(Oliver Twist)などもあったようだが、1920年の3月頃シモーニの示唆したゴッツィ作『トゥーランドット』がプッチーニの興味を惹くことになり、制作が開始された。ちょうどこの頃、同戯曲がマックス・ラインハルトの演出によってドイツで舞台化され評判が高かったことも影響していると考えられる(プッチーニはドイツ贔屓で有名で、この舞台をベルリン滞在中に観たことがあった)。
(フリー百科事典ウィキペディア:トゥーランドットより)
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